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人への期待
人に期待しない
という言葉はよくきくが
本当にそれができればなんと心が穏やかだろうと思う
人への期待って
相手の性格、行動パターンなどなどが
自分の中で設定としてあって
それと事象がズレた時に
ああー!期待してしまっていた!
と気づくわけである
でも逆に
設定なしに周囲と付き合っていくのは
なかなか負担がかかりそうな気がする
なんでかっていうと、
人はなるべく省エネで生きていこうとする特性があるからだ
一回一回、設定を0にしてコミュニケーションするなんて
可能なんだろうか
さながら何回でも相手がわからなくなるお年寄りのていで過ごすと
余談だけれど、マインドフルネスでは
目の前を常に新鮮なものとしてとらえることを
実践をする
いつも見ていたスマホをまじまじと見る
毎日食べているお米を糊状になるくらい味わう
などなど
実践の場は日常のどこにでもある
瞑想とか、修行とか、スピリチュアルとか
そのあたりでもよくきかれる話で
人の行き着きたい先は
ノーモア設定
ノーモア色メガネ!
ということなのかもしれない
仕事をしていると、
役割と照らし合わせて「◎◎してくれて当然だと思っていた」
なんていうのはよくある
これがお客さんとの関係になってくるとさらに複雑になり
「お金を払っているのだから◎◎してくれて当然」
「こういう仕事(ケア的な)をしているのに、
という
カスタマーハラスメントなのか倫理の話なのか仕事という価値観の話なのか
ひっちゃかめっちゃかになる
人への期待が強くなるのは
相手が近しい存在だから
相手が大事な存在だから
この話を今考えている私は
過去に期待して苦しかった自分を思い返している
家族、恋愛、職場
どこでもかしこでも期待と現実のはざまでワタワタしてきた
最近は、何十周目かの家族との向き合い期間に入っていて
親にどこまでも期待していた自分に気づき
打ちのめされている
とうの昔に期待を捨てた気でいたけど
ずっとずっと認められたい気持ちは変わらなかったんだ
と行き着いた
しかし、何十周目を迎えようやく違ってきたこともある
期待していて、裏切られて悲しい気持ちになったことを
見ないふりしていた自分にも気づいたのだ
これまでは、
実の親から大切にされないなんて生まれるところをまちがえたんじ
私がずっと苦しいのはこのとんでもない親のせいだ
そう叫びながら心臓のあたりをさんざんぐちゃぐちゃにしたあと
でも親は変わってくれないから仕方ない
相手を変えることはできない
いつまでも言ってたってしょうがないじゃん
のモードになる自分がいた
必死に蓋をしていたんだと思う
このモードも、実は私ではなく
私の仮面を被った母がその正体である
相手の感情をないものとする、コントロールできると
思っている母のモードそのものだった
今は、その時蓋をした鍋を
そろりそろりと開けている最中だ
ぎゅうぎゅうに蓋をしていたから
悲しい感情は判別が難しくなっている
これからは一滴ずつでも掬えるといいと思う
人に期待してもしなくてもどちらでもいいけど
自分の感情にこそ、マインドフルに、設定なしで
新鮮な眼差しを向けられるといいなと思った