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離婚してからの現在地
離婚してから8ヶ月。
夢にまでみた結婚というものを手放して
今自分が何を考えているのか、整理しておこうと思う。
夢にまでみた、と書いたけど
正確には自分の幸せを確固たるものにしたいがために
喉から手が出るほどほしかった結婚の2文字
というほうがあっている。
なんとも必死である。
半死半生、満身創痍の血まみれ四文字熟語状態だった。
自分が生まれた家庭環境から
家族というものに良い印象がなかったにも関わらず
「結婚」の状態に猛烈に憧れていた。
振り返ると、2つの要因が思い当たる。
①絶対的味方が欲しいという渇望感
②世間が決めた「幸せパッケージ」に入れば幸せになれるという妄想
2つについて、もう少し詳しく書いてみよう。
①絶対的味方がほしいという渇望感
自分の絶対的味方がいない(と感じる)状態からスタートして
非常に不安定な気持ちのまま生きていたので
結婚をすれば、何があっても切れない縁=味方=家族
ができて安心をゲットできると考えていた。
結果から言えば、そんなわけなかった。
というか、自分がそうじゃないところに生まれて不安定さに至ったのなら
上の等式が理論的に破綻してると
早く気付きなよという話だった。笑
でも、だからこそ求めたかったんだと思う。
そういう場所はどこかにあるはずだ!絶対的味方はいるはずだ!
幼いながらに必死に探していたんだろうな。
けど絶対的味方、ほしいでしょ。みんな。
「絶対」などこの世にはないとか哲学的な話に入りたくなるけど
私のような凡人でも認識できる範囲での「絶対」ぐらいならば
一つ言えることがある。
絶対的味方は私自身である。
究極的に、自分が一番に自分の味方であって
それが拠りどころになるのである。
いわゆる自立ということだと思う。
本当は、成長の過程でその自立をサポートしてくれたり
わかりやすい拠りどころになってくれるのが、
家族であれば話は早い。
しかし、そんなできた家族ばかりじゃない。
というか、そんな家族の方が稀であると、
普段相談を受ける身として思うことであるし、世の中を見ていても思う。
もちろんグラデーションはある。
受け手(子ども)の感受性にもよる。
というように、成長過程そのものが不確かならば
自分が誰よりも自分の味方であると決めてしまえば「絶対的」の担保ができる。
そうやって自分を育てていくことが大人になることなんだと
今では思っている。
渇望していた自分の状態を振り返って、
今では自分の味方であることを意識して生き始めた結果、
周囲にいる人たちを信じられるようになってきた。
逆説的で面白い、人生の不思議である。
②世間が決めた「幸せパッケージ」に入れば幸せになるという妄想
これもかなり大きい。
幸せという言葉の意味、中身は、それはもう人によって違いすぎるので
正直それっぽいに騙されていたと被害者面したくなる。
だって、結婚て人生で必ず経験すべきことなんでしょ?
結婚して、家族をつくって、子どもが生まれて、っていう
お決まりのパッケージがあるんでしょ?
そういう大前提のもとに流れるCM、たくさんやってたじゃん。
問題は、そういうパッケージからはみ出した人生を
自分で肯定できる強さがなかったことだった。
強さじゃないか。信頼の方があっているかもしれない。
自分自身との信頼関係。
結婚できなければ幸せって人から思われなくて、可哀想な私になってしまう。
そこまで明確に考えていなかったが、当時の焦燥感を言葉にするなら
こんな感じだ。
人から思われても思われなくても
私自身は幸せをどう定義しているのかという観点がすっぽり抜けていた。
人に「あなたは幸せだね」と言ってもらわなければ幸せだと思えなかった。
伝統なんてくそくらえを思っていた自分が一番
社会的世間的にどうかを気にして結婚に至ったわけだった。
2つの要因に動かされ
結婚し、出産し、育児をしというパッケージを得た私だったが
それを経て、パッケージがほしかっただけの自分に気づいた。
離婚を選択したのはいくつか理由があるが、
生きてきた道で起こった出来事と照らし合わせ
人生最大の伏線回収をした感があるのは確かだ。
最大とはいったが、この先の人生がまだまだ楽しいものになることを
確信している自分がいる。
絶対的味方=自分を得たことで進めている今なんだと思う。
今、とても楽しい。